50〜80年代の北朝鮮海軍編制変遷史

1)1940〜1950年代の北朝鮮海軍編制

■水上保安隊と海岸警備隊時代の編制(1946〜1949)

 下は、1946年6月(又は7月)創設された水上保安隊時代の編制である。水上保安隊本部と東海水上保安隊本部は、元山に位置し、西海水上保安隊本部は、鎮南浦(現在の南浦)に位置した。東海水上保安隊隷下には7個支隊が、西海水上保安隊隷下には8個支隊が所属していた。1946年8月には、元山にあった水上保安隊本部を平壌に移転した。

水上保安隊編制図

 1946年12月には、水上保安隊を海岸警備隊に改称し、編制も改編された。「東海水上保安隊」を「元山警備衛戍司令部」に、「西海水上保安隊」を「鎮南浦警備衛戍司令部」に改編し、「清津衛戍警備司令部」を新設した。

■創軍初期の編制(1949〜1950)

 海岸警備隊は、内務省所属だったが、1949年8月28日に民族保衛省(現在の人民武力部)に移管され、正式に「人民軍海軍」に改編された。このため、北朝鮮では、過去には8月28日を創設日として記念してきた(現在は、6月5日が海軍節)。

 創軍直後の編制は明らかではないが、第1衛戍司令部(清津)、第2衛戍司令部(元山)、第3衛戍司令部(鎮南浦)等があったという。衛戍司令部隷下部隊の編制は、公開資料において確認されていない。

■民族保衛省規律規定の中の海軍編制は、実際の編制なのか?

 創成期の海軍編制と関連して、1つの考慮すべき資料がある。『北韓軍事論』付録中に「規律規定(民族保衛省総参謀部1949年)という文書が添付されている。規律規定第1章11項を見れば、次のような規定が出てくる。

11.(前略)上官は、その部下に対して官等級に従い次のように懲罰権を行使する。
 
  1. 少尉、中尉、大尉は、小隊長の権限を行使する。
  2. 総尉、海軍総尉は、中隊長(4級艦艇)の権限を行使する。
  3. 少佐、海軍少佐、中佐、海軍中佐は、大隊長(3級艦艇)の権限を行使する。
  4. 大佐、海軍大佐は、連隊長(2級艦艇)の権限を行使する。
  5. 少将、海軍少将は、師団長(1級艦艇)の権限を行使する。
  6. 中将、海軍中将は、集団軍司令官(艦船旅団司令官)の権限を行使する。
  7. 大将、海軍大将は、軍団司令官(分艦隊司令官)の権限を行使する。
  8. 上将、各兵種元帥、海軍元帥及び共和国元帥は、軍管区司令官(艦隊司令官)の権限を行使する。

 この規定から、下のような編制を推測することができる。

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艦隊(元帥)−分艦隊(大将)−艦船旅団(中将)

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1級艦(少将)−2級艦(大佐)−3級艦(少佐〜中佐)−4級艦(総尉)

 しかし、このような編制が1949年当時の実際の北朝鮮海軍の編制とは考えられない。集団軍、軍団、軍管区式の編制や、艦艇を1級艦、2級艦式に等級化するのは、旧ソ連式の制度である。軍管区司令官のような編制は、当時の北朝鮮地上軍の編制に存在しなかった編制である。また、この頃の北朝鮮海軍艦艇中に将官級が艦長職を遂行するだけの大型艦艇は存在もしなかった。ともかく、建国初期の北朝鮮がソ連式制度を模倣する時代的な状況下に、ソ連式規定をそのまま導入する過程において、このような用語が出てきたようである。

■朝鮮戦争中の北朝鮮海軍の編制

 朝鮮戦争当時の北朝鮮海軍の編制は、正確に知ることができない。ただ、前海軍司令官金鎰普i現人民武力部長)が人民武力部長に任命されたとき、韓国マスコミにおいて報道された経歴を見れば、朝鮮戦争当時、金鎰浮ェ海軍戦隊長を歴任したという。この報道が事実ならば、朝鮮戦争当時、北朝鮮海軍に既に戦隊という編制が存在した可能性がある。しかし、金鎰浮ヘ、1928年又は1933年生まれと知られており、20代初盤の金鎰浮ェ朝鮮戦争当時の海軍戦隊長だったという報道は、少し疑わしい。実際、別の資料では、戦隊という編制が確認されていない。

 比較的最近(2001年)に朝鮮戦争に関するソ連側資料(ラズバエフ報告書)が新たに公開された。この本には、1951年以降の北朝鮮海軍の編制が詳細に公開されている。1951年当時、既に北朝鮮海軍は、ほぼ全ての保有艦艇を喪失した状態だった。従って、下で説明する編制は、一般的な編制というよりは、多少変則的な非正常状態の編制という点を注意して欲しい。元資料がロシア語なので、舞台名称自体は、単純な翻訳に過ぎず、北朝鮮で使用されていた正確な用語ではない。

1951年4月基準の北朝鮮海軍編制

 上の組織図は、ラズバエフ報告書(1951年4月基準の海軍編制、軍事編纂研究所翻訳本2巻p157)を基準に作成したものである。

 この資料によれば、北朝鮮最高司令官命令第0127号(1951年2月18日)により、1951年3月頃、陸戦隊を陸軍に転軍させ、海軍指揮部(司令部)、清津海軍基地、海岸防御及び陸戦旅団指揮部(司令部)、高射砲連隊、海軍建設大隊。水兵学校、海軍病院等を解体させたという。

 海軍指揮部を解体したのは、既に水上艦戦力が全滅し、事実上指揮する実兵力がない状態だったためで、残存海軍部隊を陸軍の指揮系統に編入させたことのようだ。

 この資料上には、元山海軍総基地、清津海軍基地、鎮南浦海軍基地という表現が出てくる。羅津港、雄基港は、単純な「港」という表現を使っており、清津海軍基地も基地解体後には、「清津港」と表現されている。これは、「基地」自体が編制単位であることを暗示しているのだろう(北朝鮮や中国海軍では、「基地」が編制単位として使用された。)。1951年基準の「基地」の位置と1949年基準の「衛戍司令部」の位置が一致(清津、元山、 鎮南浦)する点は、注目すべきである。

 当時、2個基地隷下には、スクーナー(当時、漁船として使用されていた無動力帆船を意味する。)3〜4隻があっただけで、戦闘艦艇とは言えなかった。

 当時、北朝鮮海軍陸戦隊は、計6個旅団あったが、元山基地隷下に陸戦隊1個大隊、鎮南浦基地隷下に陸戦隊1個大隊だけが残され、残りの陸戦旅団は、全て陸軍に転軍させられたという。海岸砲兵は、元来2個連隊があったが、76mm砲を装備した独立砲兵大隊3個と107mm砲を装備した独立砲兵大隊5個として編制したという。

1951年10月基準の北朝鮮海軍編制

 上の組織図は、ラズバエフ報告書(1951年10月基準の海軍編制、軍事編纂研究所翻訳本3巻p262)を基準に作成したものである。

 この編制上には、1951年4月基準の編制にはなかった(東海岸/西海岸)防御地域参謀部及び指揮部という新しい機構が見られる。また、海岸線警備参謀部及び指揮部という機構が新たに目に付く。東海岸を担当する司令部を1個ずつ新たに設置し、その隷下に海岸警備部隊を指揮する司令部を新たに設置したようである。

 基地という表現も見られず、代わりに「水路区域」(元山、長津、南浦)という新しい用語が登場する(長津が正確な表記なのかは疑わしい。あるいは、長箭か清津の誤表記かも知れない。)。水路区域の所属人員がわずか20余名に過ぎず、保有艦艇もないものと見れば、これらは、「基地」や「衛戍司令部」とは役割や性格が異なる別個の組織のようである。

 海軍隷下に「独立砲兵機関銃旅団」という新しい部隊も見られるが、保有装備を見れば、小数の45mm対戦車砲が含まれているのみで、その他の砲兵装備はない。従って、これら独立砲兵機関銃旅団は、海岸砲兵部隊ではなく、海岸警備を担当する歩兵部隊のようである。これら部隊は、「海岸線警備参謀部及び指揮部」の隷下に所属したものと見られる。

(朝鮮戦争中の北朝鮮海軍陸戦旅団、陸戦大隊の変遷過程に対しては、別途の文で論じる予定である)。

2)1960〜1980年代の北朝鮮海軍編制

■60〜80年代の海軍編制の概要

 『北韓軍事論』(1978)と『防衛叢書』(1986)には、詳細な北朝鮮海軍の編制が出ている。ここに出ている編制の上限線と下限線は、正確には分からないが、概ね60〜80年代の編制と見られる。

60〜80年代の北朝鮮海軍編制

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艦隊基地戦隊編隊

 上の編制図は、『防衛叢書』(1986)p240を参照して作成したものである。

 魚雷戦隊は、当然魚雷艇で構成された戦隊である。誘導弾警備戦隊は、ミサイル高速艇(誘導弾高速艇)で構成された戦隊であり、海岸防御誘導弾部隊は、海岸に設置された地対艦ミサイル部隊を意味するものである。警備戦隊の場合、沿岸哨戒艇(PC)や沿岸警備艇(PB)で構成された戦隊と考えられる。次の駆潜戦隊は、So-1級等の沿岸哨戒艦(PC)やコルベット(FFL)を保有した戦隊と考えられる。上の資料を土台に見れば、保障編隊、掃海編隊等、戦隊に隷属しない独立編隊も一部存在していたようである。

■艦隊の編制(60〜80年代)

 上の資料には、艦隊司令部(東、西)の編制は出ていない。ただ、海軍司令部と基地の編制を比較すれば、東西両艦隊司令部の編制も、概ね推察が可能である。先ず、艦隊司令官は、当然存在したものであり、艦隊参謀長の場合、金鎰浮フ過去の経歴において確認されることにより、存在が確認された。北朝鮮のシステムとして見れば、政治副司令官も当然存在しただろう。この外に、艦隊技術副司令官と艦隊後方副司令官の職制もあったのか?

 当時の編制を基準として、艦隊隷下に基地が各2個ずつだけ存在したことを考慮すれば、艦隊と基地は、機能上の役割を分担した可能性もある。当時の編制を基準として、北朝鮮海軍は、艦隊2個→基地4個→戦隊20余個で構成されていた。わずか2個しかない基地を指揮、支援するために、艦隊司令部に政治部、技術部、後方部、参謀部を全て設置することは、多少非効率的である。若しかすると、この頃の艦隊は、作戦機能のみを遂行し、軍需支援機能は、海軍司令部から直接基地に連結するシステムだったかも知れない(推定に過ぎない。)。

■基地の編制(60〜80年代)

 当時の北朝鮮海軍基地の編制は、下の通りである。隷下に完全な参謀部署を備えているものと見られ、当時の基地は、一種の部隊編制単位だったようである。今も、中国海軍では、基地が編制単位(艦隊−基地−艦艇支隊−艦艇大隊−艦艇中隊−艦艇小隊)として使用されている。

60〜80年代の基地編制


■戦隊の編制(60〜80年代)

 基地隷下には、5〜7個の戦隊が存在した。これら戦隊も、下のように完全な参謀陣を備えている。戦隊の下の編隊は、編隊長、政治部副編隊長、編隊機関長のみ存在し、その他の参謀陣は存在しない。従って、戦隊を概ね米海軍のSquadronに、編隊を概ねDivisionと比較することができる。編隊の場合、戦隊に隷属しない独立編隊も存在していたようである。

60〜80年代の戦隊編制

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最終更新日:2003/05/25

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